その1: 要するに全部、学校から始まった

アメリカの学校にはパソコンがあった

 僕は1983年の年末にアメリカに引っ越して、1984年の1月から現地の学校に通い始めた。当時10歳。言葉もまったく理解できないし、学校のつくりもまったく違う。肌の色が白い人、黒い人、浅黒い人といろいろいるだけでもびっくりの連続。授業の進め方も当然、全然違う……。

 ここから本題。この学校では週に2回、「コンピューターの時間」というのがあった。これにもやはり、「がちょーん!」と驚いた(1984年だから……)。たかが全校生徒200人程度の小学校なのに「コンピューター・ルーム」なんてものがあった。いまでこそ日本の小学校にもパソコンが導入されたりしているようですが、アメリカはそれを1980年代の前半からやっていた。振り返って考えると、この差は大きいかも。

 その部屋にあったのは、確かApple IIe が2台とCommodore のPET というパソコンが4台か5台。Apple IIe にはカラーディスプレイがついていたけど、Commodore PET の方は本体とモニターがくっついた一体型で、しかもモニターは緑一色。当時は目に優しいと言うことで、グリーン・モニターが多かったような記憶がある。それでもパソコンと言うだけで妙に気持ちが高ぶったけど。

 それで何をするかというと、いわゆる学習ゲームをやらされる。このころからアメリカの学校では、パソコンを使った教育というのを試みていたようだ。今はどうなのか良くわからないけど、当時のアメリカが慢性的に教師不足に悩んでいたという時代背景もあったのかも知れない。

 ただ、周りのみんなが英語の綴りを覚えるゲームなどをやっている間、僕はそれを横から眺めているばかりだった。ソフトウエアは全部英語でできているわけだから、パソコンそのものに興奮を覚えても、そこから先は日常生活と同じでわけが分からない。ただのゲームだったら良かったのに……と唇を噛んだ(ちとおおげさか)。

その頃のゲーム事情

 でも当時はまだ、とてもパソコンが欲しい!という程ではない。なにしろ10歳の小学生だから、関心はゲーム機の方に注がれていた。日本でもまだファミコンが登場していないこの時期に、アメリカではAtari 2600 という機種が大流行。そのほかにもColeco Vision とかいうのがあったような気もするけど、とにかく、友達のほとんどがAtari 2600 を持っているような時代だった。

 Atari 2600 なんて、今思うと恐ろしく原始的な映像ではあったが、学校の友達にPitfall とかインディアナ・ジョーンズのなんとかというゲームとかを借りて来るのに必死だった。こんなことを書いていると、Centipede とかJoust とかCrystal Castle とか、あの頃の名作をいろいろと思い出してしまう。そうそう、Pac-man を忘れてはいけない……。

わが家にもパソコンが!

 本題に戻って1984年。この年の後半になって、わが家にもパソコンが導入されることになった。(注1) 本来わが家の両親は新しい物好きという感じではなくて、むしろ母親はいまだにビデオの配線も自分でできないぐらいの機械音痴だ。ではどうして購入することになったのか?

 それもやはり、学校が理由なのです。僕は小学校で綴りのゲームや算数ゲームをやるぐらいだったが、学年にして3つ年上の姉は既に中学生でベーシックの授業をとっていた。(注2) 授業中にプログラミングが終わらない人は、放課後にコンピュータールームに行くか、フロッピーを持ち帰って家のパソコンで続きをやるか、という状況だ。ただ、放課後に学校に残るのもせいぜい1時間か2時間だし、宿題を家できないのはいかがなものか。ならば買わねばなるまい、てなわけで、わが家にもパソコンがやってきた。

 機種はApple IIc。メモリは128キロバイト(メガバイトじゃないよ)で、記憶が間違っていなければ、クロックスピードは1メガヘルツだった。5インチ型のフロッピードライブを内蔵していて、当時普及していたApple IIe に比べるとボディがスリムなのが特徴。Apple IIe はそれこそ机にどっしりと座り込むタイプだったが、Apple IIc は持ち運びも便利というのが売りの一つで、筐体に取っ手までついていた。ベージュ色のApple IIe に対して、Apple IIc は真っ白な筐体に意味不明な筋がたくさん入っていた。後のMacintosh II などに採用されたデザインの原型かも知れない。

 モニタは10インチぐらいのグリーン・モニターだが、付属の接続キットでテレビにもつなげるようになっていた。これでも当時はかなりのパワーマシンだったように思う。このころはApple IIの機種の中でも128キロバイトのメモリを積んでいるのはApple IIc だけだったから。当然、ハードディスクなんてものは存在せず。

 なんでアップルよ? という疑問はごもっとも。当時のアメリカはパソコン戦国時代とでもいうべく、実に多種多様なパソコンメーカーがあった。IBM はもちろんのこと、Commodore とか、Atari とか、Texas Instruments とか。でも、学校は全てアップルのパソコンを使っていたのだった。全米の教育市場を、アップル社が牛耳っていたといっても過言ではないぐらい、学校に行けばアップルの嵐。いい時代だったんだなぁ〜(^^;

 ちなみにプリンターはアップルのスクライブ(Scribe)という機種だった。熱転写型のプリンターで、使い終わったリボンを見るとくっきりと文字をくりぬいた跡がみえるようなやつ。これがアップルでもあまり量産されなかったのか、後にリボン探しに苦労する羽目になった。でもリボンのインクを叩くようにして紙に打ち付けるドットマトリックスのプリンターに比べて、とっても静かだという利点はあった。カラー対応というのも嬉しかった。

(つづく)

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参考リンク: Apple IIc の写真(リンク切れしてしまいました)

(リンク先の画像にはマウスも一緒に写っていますが、マウスは最初のセットには入っていません。わが家でも後にマウスを$100ぐらいで購入しましたが、マウスに対応しているのはマウス付属のペイントソフトだけでした。ただ、振り返ると僕にとってはこのペイントソフトこそがMacintosh GUIへの入り口でもあったという気がします)


(注1)1984年といえば、アップル社がIBMのパソコンをぶち壊すテレビコマーシャルを作った年だったかな? Macintosh が登場したのもこの年だったような……。しかしMacintosh なんて当時はマイナーもマイナー。僕がマックの存在を知ったのはこれから数年後のことで、1984年の時点では存在すら知らなかった。小学生だから無理もないが、とにかく、僕がマックを使うようになるにはこれからさらに9年の時を要することになるのです。

(注2)中学校でベーシックを教えていた話を書いていて、改めて歴史の皮肉さというか、因果なものを感じる。僕が住んでいたのは「車の街」として有名なデトロイトの近郊で、当時は不況の大嵐という時代だった。そんな時代にアメリカはじわりじわりと産業構造の転換を進めていたのだなぁ、と思うことしきり。日本がIT革命に乗り遅れたなんて話がよくされているけど、この違いを考えれば仕方ないじゃん、という結論に至ってしまうのであった。